東北大震災 郡山市民の視点 本文へジャンプ
被災生活の状況[報告者:キヨノ ken_chaos@yahoo.co.jp] ツイートする
twitter: lab611
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2011年03月31日(木)
ガソリン供給の不安消える
 昨日今日とガソリンスタンドから、待ち行列がなくなった。とはいえ、夜になると閉店している店が多い。4月8日から幼稚園、11日から小学校がはじまるので、子どもたちを茅ケ崎に迎えに行かなくてはならない。とりあえず、燃料の心配はなくなった。
 地震保険の会社からは依然電話がかかってこない。
放射線と健康
 私のまわりでは、郡山市での放射線量を気にする方が多い。私も放射線には怖いイメージがあり、放射線の健康への影響が気になる。最近の郡山市役所の測定地点では、1時間当たり3マイクロシーベルト程度の環境放射能が測定されてきた。徐々に減少し、今日は1時間当たり2マイクロシーベルト程度になっている。気になる事は、この程度の放射線が健康に悪影響をおよぼすかどうか。テレビなどでは、ただちに健康に影響はないとしきりにいっている。それでも、まったく無害かどうかが心配になる。ということで、調べてみた。
 疑問は、「年間の総量で10ミリシーベルト(=1万マイクロシーベルト)程度の放射線を浴びたときの健康への影響は?」ということ。解答は、「悪影響がある」、「影響はない」、「良い影響がある」の三択から。
 Web上の資料や論文を調べた。しかし、わかってきたことは、現在の学問的な知識では、答えが出てないということ。とはいえ、上の三択のすべてについて、それをやんわりと支持するような文献があることはある。ここでは、「影響はない」、「良い影響がある」について、興味深かった結果を紹介する。
 まずは、高度情報科学技術研究機構(http://www.rist.or.jp/ )が発表している次の調査。
(1) ブラジルの高自然放射線地域における住民の健康調査
http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=09-02-07-03
(2) インドの高自然放射線地域における住民の健康調査
http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=09-02-07-02
(3) 中国の高自然放射線地域における住民の健康調査
http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=09-02-07-01
(注意:上のリンク中の単位はGy = Sv)
地球上には、放射線量の高い地域があって、そこでは、年間数ミリから数十ミリシーベルト(数千から数万マイクロシーベルト)の放射線の影響を受けている。放射線量の低い地域と比べたとき、健康についての影響は見られないというのが結論。
 上記の地域以外でも、高い放射線量を受ける人がいる。それは、パイロットや宇宙飛行士。高度12,000mでの放射線は、1時間当たり5マイクロシーベルト。したがって、ジェット機のパイロットは、飛行機の運転中に高い線量をあびることになる。この点を検討した資料が、放射線安全規制検討会から公表されている。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/gijyutu/004/004/sonota/1267108.htm
この資料には、「今後検討が必要です」程度の結論が述べられているだけ。現状の郡山市の放射線量を異常に気にしている人がこれを読めば、海外旅行を躊躇するようになるだろう。
 以上の結果は、どちらかというと「健康に影響はない」ということを裏付けているもの。
 一方で、「良い影響がある」といのもある。専門的な学術雑誌(インパクトファクターが2程度)に掲載されているものは、稲 恭宏先生の論文などがある。稲先生の論文をダウンロードして読んだが、マウスの結果だった。したがって、これだけで人への影響は判断できない。とはいえ、Youtubeなどで、お話をきけるようなので、興味のある人はお名前で検索していただきたい。他には「放射線ホルミシス」というキーワードも、興味があれば調べてみていただきたい。科学的な信憑性の判断は私にはできないので、判断は各自でお願いしたい。他には、放射線と健康を考える会、
http://www.iips.co.jp/rah/index.htm
にも、一般向けの説明がある。この会の紹介の冒頭に「最近の生命科学の急速な進歩により、少しの放射線での危険は心配しなくてもよいことがかなりわかってきています。」とある。この少しの放射線とは、原発事故後に我々福島県民があびている放射線の範囲を含んでいる。
 暫定基準や国際放射線防護委員会(ICRP)の基準には、科学的な根拠が十分ではないということ。これは、はっきりとわかってきた。数百ミリシーベルト以上の被ばくでは、長期的に見て、健康に悪影響があるという証拠はあるが、数ミリから数十ミリシーベルトの影響は分からないということだ。現在使われている基準は、わかっている結果に定規を当てて、無理やり直線を伸ばしてえられた値だ。実際には、あるしきい値があって、それ以下ではまったく健康に影響がないかもしれない。もしくは、良い影響がある可能性もある。今後の数十年にわたる研究で、このことがはっきりしてくるだろう。今回の事故は、非常に不幸な出来事だが、非常に重要な知見がえられる大きなチャンスでもある。関連分野の研究者には、徹底的に調査していただきたい。
 その他の資料は、
放射線影響協会 「放射線の影響がわかる本」
http://www.rea.or.jp/wakaruhon/mokuji.html
原子力機構 「安全基準」(基準を決める直線を伸ばすことの説明)
http://www.jaea.go.jp/04/turuga/mext-monju/safety/safe-ri05.htm
http://www.jaea.go.jp/04/turuga/mext-monju/safety/safe-ri06.htm
2011年03月30日(水)
依然、研究室の片づけ終わらず
 地震から20日。先週からずっと研究室の片づけをしているが、なかなか終わらない。いい機会なので、徹底的にゴミを片づけようと思って、過去の資料を整理していると古い資料がたくさん出てくる。郡山に来て5年が経つが、郡山に来てから一度も開けたことのなかった段ボール箱が5箱もあった。
 その中の2箱は、8年前に私が大学院生だったときの資料が入った箱。これは、8年間開けることはなかった。13年前の卒業論文、はじめて学術雑誌に論文を投稿したときの下書き、学会発表で使ったOHPのスライドが入っていた。研究員の職に応募したときの応募書類もあった。当時は職がなかなか決まらず焦ったものだ。なつかしいなと思ったが、8年間使わなかったのだから必要ないなと思い、卒業論文を残して、すべて捨てた。
 他の資料は、ほとんどが論文。分野ごとに製本したりして当時は苦労して集めたが、今はインターネットで簡単に論文が読める時代。入手が難しいと思われる資料を除いて、ほとんどのものを捨てた。
 ごみはほぼ捨て終わったので、片づけもある程度終わりが見えてきた。研究室をきれいにして、気持ちをあらためて元の生活に戻りたい。

2011年03月29日(火)
郡山市役所に大きなクレーン
 地震で潰された郡山市役所の展望台の修理、もしくは撤去のためだろうか、大きなクレーンが見られた。また、さくら通り沿いの回転ずし店(トップページ参照)にも、足場を組むようすが見られた。

保険会社へ電話、対応は後日
 自宅の損傷をほっとき続けるわけにもいかないので、午前9時半、保険会社へ電話。フリーダイヤルでかけると、すぐにオペレーターにつながる。まずは、証券番号、自宅住所を告げ、本人確認。そして、自宅の損傷程度をきかれたので、状態を伝える。しかし、地震保険の具体的な対応は、後日専門スタッフから連絡がくるとのこと。り災証明を準備すればよいのかと質問すると、それも、専門スタッフにきいてくれと言われた。携帯電話の番号を教えたが、今日は連絡はこなかった。
 マンションの外壁などの共用部分については、別途、管理組合で対応する必要がある。朝、管理人さんに進展具合をきいたが、依然未定とのこと。なんだか、世の中からほっとかれているような気持ちに。
 早く、自宅の修繕を済ませたいという気持ちもあるが、費用の見積もりが出て、保険がきかなかったら、・・・。心配しても仕方ないので、サッカーでも見て気を紛らわすことに。
 なお、地震保険のための「り災証明」の発行については、次の通りです。
発行場所: 市民課(郡山市役所分庁舎1階)、行政センター(大槻・富田を除く)
発行時間: 午前8時30分 − 午後5時15分(土・日曜日、祝日を除く)
申請時に添付するもの: 被害状況のわかる写真(現像または印刷したもの。なお、発行場所では写真の印刷できません)、または業者による修繕見積書等


2011年03月28日(月)
人、車とも驚くほどの通行量
 土曜から出張で新潟に。新潟のみなさんは、節電で我々を助けてくれているようで、夜の街は薄暗い印象。開店中の店でも、看板は暗く、蛍光灯は半分くらい点灯。人通りも少ないため、さびれた印象に。それでも、買いたいものは、ほとんどのものが手に入る夢のような場所。
 そして、今朝、郡山に帰ってきた。地震前であれば驚くこともはまったくないが、地震後2週間の閑散とした郡山駅前周辺と比較すれば、人、車ともかなりの通行量があった。日中や夕方、ジョギングやウォーキングをする人も目にした。ずっと家に閉じこもる生活に嫌気がさした人もいるかもしれない。それに、仕事を2週間以上休むと、さすがに生活が心配になる。
 新潟からの帰り、午前11時ごろうねめ通りをバスで通ると、ガソリンスタンドには10〜20台ほどの列。ずいぶんとガソリン供給が改善したのかなと思った。それならばと思い、ガソリンの残りの少ない車を給油しようと、車で大学へ向かう。しかし、あてにしていた4か所のガソリンスタンドは、すべて閉店中。燃料の供給量の改善は一時的なものだったのかと不安になる。とはいえ、車の通行量はかなりのもの。タンクローリーも頻繁に見かける。
 地震後は、少しでもガソリンを節約するため、車の暖房は使っていない。最近は、寒い日が続くので、足元がかなり寒い。それでも、自転車よりはまし。近いうちに給油できれば、ありがたい。
宅急便、ゆうパックとも自宅へ配達に
 一昨日くらいまでは、配達される荷物を受け取るときは、営業所止めだったが、やっと、自宅まで配達してくれるようになる。自宅では玄米を精米機で精米して食べているが、今、無洗米が人気ということで、無洗米を作れる本格精米機をネット通販で注文した。

2011年03月27日(日)
再生のための足場
 震災から2週間が経過し,駅前に散らばるガラスや瓦礫が片付けれらていることに気づく.駅前の建物にもわずかではあるが工事用の足場が組まれている.そろそろ,補修工事がはじまる建物もあるのだろう.
 さくら通りでは,倒壊の危険性のある建物も見られ,古い建物の中には修理だけでは済まないものもあるだろう.あと半年もすれば、郡山の街並みに歯抜けのような空き地ができていくのではないだろうか.

2011年03月26日(土)
避難中お世話になった芳山小,卒業式は3/31に
 私と家族が地震後避難させていただいた芳山小学校は,地震発生の11日から休校されたまま春休みに.本年度の卒業式は行われていなかった.その卒業式が3月31日に行われるようだ.場所は,学校の図書館で,参加者は卒業生と家族だけということ.現状では,郡山市から他の場所へ避難している家族も少ないないと思われ,卒業生全員が参加するのは難しいかもしれない.とはいえ,転校するかもしれない卒業生のことを考慮するとの日程的に31日が延期の限界だろう.
 私の勤務する大学は,地震の直後には新年度の開始を2週間遅らせる予定であったが,昨日,5月の連休明けからの開始に変更さた.福島県では原発の危険性が完全に取り除かれるまで,学校行事の予定を立てるのは難しいだろう.息子の通う小学校の新学期が,いつはじまるのかについては,未だに知らされないままだ.
郡山駅のバスターミナルではバスを待つ長い列
 午前8時,駅前のバスターミナルでは,那須塩原駅行き,福島行きのバスに長い列が見られた.

うねめ通りには給油を待つ長い車列
 午前8時過ぎにうねめ通りを通る.3軒のガソリンスタンドをみかけたが,どのスタンドにも100台を超える待ち行列.

2011年03月25日(金)
床が見える成果
 地震発生の11日には、3分間以上激しいゆれが続き、すべての本棚が倒れた研究室。床は本や書類で埋め尽くされていた(左の写真)。今週になって本格的に片づけをはじめた。数十分作業をしては、しばらくぼーっとし、また少し作業をしては、ぼーっとする。なかなか作業ははかどらない。正直にいうと、地震の前から研究室はゴミ書類で溢れていた。いい機会だと思い、ゴミの整理をする。地震発生後2週間たち、ある程度床が見えてきた(左から2番目の写真)。
 昼食を買うため近くのコンビニへ行くと、図書館のスタッフに会う。図書館の本を戻す作業は大変だといっていた。研究室に帰って窓の外を見ると、向かいの図書館のカーテンが開いている(右の2枚の写真)。ほとんど本が落下しているとすると、大変な作業だ。
 午後6時に作業を終わりにして車で帰る。みぞれが降っていた。自宅マンションに帰る途中、芳山小学校と二中に目をやると、先週と同じく複数の教室に明りがついている。まだ、避難生活は続いているようだ。

3月12日撮影

3月25日撮影

窓から見える
図書館(その1)

窓から見える
図書館(その2)

風で飛ばされる放射性物質
 23日付けでプレス発表されている放射線被ばく量の推定を見た(これ)。その発表では、私のいる郡山市の全体像がみれなかったので、発表結果を使って福島県全体での位置関係を表すグラフを自作(下の画像)。
 下の図でもっとも薄い黄色の範囲の境界での被ばく線量は100 mSv (ミリシーベルト)。これは1時間当たりではなく積算値。この見積もりは、3月12日午前6時から24日午前0時まで、ずっと外にいた場合に被ばくする総量らしい。しかも、1歳児の甲状腺での被ばく量。私には、この辺の条件がどう効くのかはわからないが、保守的な条件で予想した量ということだ。保守的というのは、考えられる状況の中でも最悪だった場合を考えるということ。つまり、1歳児が3月12日から23日の深夜まで、ずっと屋外で生活した場合といのが、今回の厳しい条件らしい。屋内にいること、年をとっていることなどの条件で、被ばく量は少なくなっていくのだろう。したがって、この推定が正しいとすれば、ほぼすべての人が、この被ばく量よりは、かなり少ない被ばく量になる。
 とはいえ、この報告は、住民からすれば、かなり恐ろしいものに見える。これまでは、原発からの直線距離で避難などが指示がされてきたが、それの根拠が曖昧に見える。郡山市は比較的、風向きなどの条件が良かったのかもしれないが、今後も予断を許さない状況は続く。

2011年03月24日(木)
3月の都市ガス代金は推定値での請求
 地域の都市ガスを供給している東部ガスから郵送でガス代金の請求予定通知が届く。通常は、検針に来た東部ガス職員がこの通知をポストにいれるが、今回は地震で検針にこれなかったとのこと。3月(2/22〜3/19の期間)のガス使用量は、推定値として2月と同量に。つまり、地震後、避難所にいてガスを使っていなかったり、県外へ避難していても、3月のガス料金は2月とほぼ同額請求される(2月が短いのでわずかに安い)。
 とはいえ、3月に多めに徴収された分は、4月以降に精算されるので、合計で多く請求されるということはない。
ガソリン不足が改善か?
 
大学へ行く途中、文化通り宅急便センターで荷物を受け取るため車で出かける。断ったにも関わらず、母から送られてきた荷物。中身には、純白のブリーフパンツや焼き肉のたれが。しかも焼き肉のたれは韓国風でプルコギ用(誰かの土産か?)。自宅でプルコギを食べた経験なしの私には使い道が見当たらない。東北道が通行止めの中、苦労して運んでくれたドライバーに申し訳ない気持ちに。
 大学へ行く途中、ガソリンスタンドを見ると、30台ほどの列。時間帯が良かったのかもしれないが、ずいぶんと車列が短くなった印象。あと一週間程度は、ガソリンの給油をがまんするつもりだったので、そのガソリンスタンドは通りすぎる。
 次のガソリンスタンドにも、20〜30台ほどの列。ガソリンの残量が30%ほどになっているので、入れられたらラッキーと思い、給油の列に並んでみることに。ハイオクと灯油は完売だったが、レギュラーガソリンは、まだあるようだ。待つこと20分で、給油することができた。ただし、4000円までの制限があり、25.64リットル給油。満タンにはならなかったが、ガソリンメーターが70%ほどの位置に。これならば、何かあったときに東京や新潟へ行けるので一安心。
 レシートを見ると、1リットル当たり156円。前回はいつ給油したか忘れたが、確か130円台だった。値段については仕方ないと思うが、このままガソリンや灯油の供給が安定に向かってほしい。郡山市では、仕入れがなく休業状態のガソリンスタンドが、まだ目につく。

2011年03月23日(水)
環境放射能はほぼ問題なく減少
 環境放射能測定値のグラフを更新 (21日の項目もごらんください)。データの解釈については、片対数プロットの図2が役立つ。放射能が自然に減少するときの法則性は、図2のように片対数プロットに直線が見られ、その傾きが放射性物質の半減期から決まること。図2の黒い直線とグレーの破線は、ヨウ素-131半減期8日を表す直線(傾きはすべて同じ)[間違いがあるので下記の追記参照]。福島市と白河市のデータは破線と良く一致しているので、地表に降り積もったヨウ素の放射能が自然に減少し、原発からの放射性物質の追加はほとんどなかったと考えられる。郡山市と会津若松については、それぞれ、19日と22日に階段状の増加がみられる。この変化は、風で運ばれた放射性物質の影響か。気象の詳細なデータがないのと、原発に近い地点での測定結果を見ていないので、原発からさらに放射性物質の大量放出があったかどうかは不明。いずれにせよ、この増加は、15日の変化に比べれば、ごくごくごく、わずかなので、図中の4市すべてで順調に環境放射能が減少しているといえるだろう。
 観測された放射能の減少のスピードは、ヨウ素の半減期8日よりもやや速いので、雨や雪で流されて移動した放射性物質もあるのだろう。この部分が水道水に影響を与えているのかもしれない。
 まとめると、観測データを信じる限りでは、放射能の問題は改善に向かっている。後は、原発をこのまま沈静化してもらえかどうか。うまくいけば、郡山市では4月12から15日に、地震前の環境放射能レベルの2倍以下、つまり平常レベルにおさまるだろう(今は26倍)。
[3/24追記] 半減期と時定数を間違えていました。図2は時定数を8日としたもので、半減期8日の直線ではありません。半減期は放射能の値が1/2になるまでの時間で、時定数は1/2.7になるまでの時間です。ということで、ヨウ素の半減期8日よりやや速く、8日で1/3程度まで放射能が減少しています。科学的に興味深い点は、環境放射能の減少に、放射性物質の半減期とは異なる一定の半減期 (もしくは、時定数)がある事だと思います。図1では法則性が明らかではありませんが、図2では傾きがすべて同じになる法則性が見えます。この傾きは、環境放射能の変化の将来の見通しに使える、役に立つものだと思います。

図1: 環境放射能の測定値

図2: 図1の縦軸を対数目盛りにしたもの

牛乳が飲みたい
 朝9時、スーパーへ買い物へいく。牛乳と食パンがほしかったが、どちらも手に入らず。一昨日であれば牛乳は買えたが、今後しばらく、牛乳は飲めそうにない。
 地震発生直後の避難生活では、朝昼晩、配給された食パンを食べていた時期があり、そのときは温かいご飯が食べたいと思った。今では食パンが懐かしい。最近では、スーパー、コンビニで食パンを見かけたことがない。とはいえ、パン屋へ行けば買えるかもしれない。
 また、水の販売も、昨日、今日で急激に消滅している。水道から水が出るので、不便はないが、放射能の問題でスーパーから姿を消す品目が、今後はさらに増えるかもしれない。

建物の危険度判定結果がいたるところに
 さくら通り沿いの建物に「危険」、「要注意」、「調査済」のいずれかの張り紙が張られるようになる。「危険」は赤もしくはピンク、「要注意」は黄色、「調査済」は緑。緑であれば、建物にはほぼ問題なし。昨日までは、4号線よりも郡山駅に近い範囲のみこのような張り紙があった(左の写真)。今日は少なくとも、神明町、細沼町、虎丸町に広がっている。
 今日は、自転車で大学へいった。途中、応急危険度判定士らしき人が建物を評価しているのも見かけた(中央の写真)。郡山市でも倒壊の危険がある建物がゼロではない。建物に張られた「危険」の張り紙をみると、このような倒壊の危険がある建物が「危険」と判定されるだけでなく、看板、ガラス、タイルの落下が大いに懸念される建物も「危険」と評価されているようだ。この基準では、さくら通り沿いの多くの建物が「危険」の判定に。
 今日のさくら通りには、多くの歩行者を見かけた(右の写真)。さくら通りは、歩道の幅が狭いところがあり、余震による建物部品の落下に注意が必要だ。

駅前の張り紙の例

判定中?
本日のさくら通り

朝、やや強い揺れが頻発
 午前7時、私の住む福島県中通りで震度3以上の地震がたてつづけに4回(7:12, 7:21, 7:40, 7:58)。海に近い浜通りでは震度5強を2度観測。昨日から、やや強い揺れの地震の発生が目立つ。最初の巨大地震も、この程度の地震の頻発後に起こったので、今後が心配。
2011年03月22日(火)
連休明けの夕方、車の通行量は多い
 午前10時、車で大学へ。まずは、大学前のコンビニで昼食を購入。コンビニには、おにぎりやパンなどが並んでいる。客は私以外に一人。学生の姿はなし。学内にも学生の姿はない。合格発表を見に来た学生を一人見かけたのみ。学内で避難生活をする学生はいなくなったようだ。
 研究室の床に散乱した本の山を片づけ、床が見えるようになる。部屋奥のデスクまで、本を踏みつけずに行ける道ができたので、避難させていたパソコンを設置することに。20キロ以上あるパソコンを1階から6階まで階段で運び、配線をする。電源を入れると、地震前とかわらず起動し、一安心。大学から公式に許可されている入館時間は午後4時までだが、6時半まで片づけをして帰ることに。
 午後6時半すぎ、国道49号線の通行量はかなり多く、車が数珠つなぎになっている。地震前と比べてやや少ない程度だろう。国道4号線、さくら通りも、車の通行量は多め。ただ、道沿いのほとんどの店舗が閉店しているため、街並みが地震前よりもかなり暗く感じる。
 職場でも避難先から郡山に戻ったという話を複数聞く。仕事の再開を目指し、郡山に戻る人も増えているようだ。日中、震度3〜4の余震は2回ほどあった。回数はかなり減った。

左奥にザ・モール郡山があるが、
まったく明りが見られない。

2011年03月21日(月)

環境放射能に減少傾向
 ウェブ上で入手可能なデータを使って、室外の環境での放射能測定値をグラフにしてみた。下のグラフは、福島市、郡山市、白河市、会津若松市の放射能測定値の変化を表している。
 グラフからわかることは、15日に大量の放射性物質が原発から放出され、それが各地に降りそそいだということ。テレビでも随時発表されているように、福島市の値がやや高いが、そのときに降った量がやや多かったのだろう。しかし、確実に減少傾向にあるのも確か。福島市、白河市、会津若松市の減少傾向は指数関数的な減少を示しており(図2)、これは放射能の減少の傾向としては自然なもの。放射能をもつヨウ素-131半減期が8日。図2の破線の傾きは8日程度かやや早い半減期に対応していて、降り注いだ放射性物質の大部分がヨウ素であることが想像できる。このグラフを見る限りでは、15日以降は原発からの放射性物質の飛散は少なく、さらなる大量放出はなかった、もしくはあっても別の方向に飛ばされたと考えられる。
 下の図2に描いた破線の傾向が、今後の経過の基準となるだろう。つまり、このまま事態が改善すれば、破線に沿って値が減少する。一方、危機的な事態がふたたび起これば、破線を大きく外れて値が上昇するということだ。このまま事態が収拾されることを祈る。
[3/24追記] 半減期と時定数を間違えていました。図2は時定数を8日としたもので、半減期8日の直線ではありません。半減期は値が1/2になるまでの時間で、時定数は1/2.7になるまでの時間です。ということで、半減期8日より、やや速く放射能が減少しています。

図1: 環境放射能の測定値

図2: 図1の縦軸を対数目盛りにしたもの

自宅マンションは大丈夫か?
 エントランスに自宅マンションのディベロッパーからの「ご連絡」の張り紙がある。日中に、建物を見に来たとのこと。今日は予備調査のみ。建物の状態や安全性についての調査は後日ということなのだろう。それに、危険性の高い建物から、手をつけるべきであるので、今回は危険性の順位付けをしただけなのかもしれない。書面の雰囲気からすると、このまま住んでいても大丈夫ということだろうか。地震の直後には、このままマンションに住み続けられるのかという不安の声が多数きかれた。
 自宅マンションは新築後4年半が経過している。もしも、建て替えということになれば、経済的にも、精神的にもショックが大きい。建物を支えるメインの柱と梁には全く損壊がみられないので、私の予想では取り壊して建て替えということはないと思う。しかし、建て替えまではいかなくても、外壁の修理などにはそれなりの費用がかかりそうである。さらに、内装を直すとなると、いくらかかることやら。まだまだ、出口の見えない不安は続く。

郡山市は雨
 本日は雨。雨雲は薄く、空は明るめに見えるが、水たまりには絶えず雨粒がうちつけている。郡山市内では、瓦ぶきの家屋に、瓦の落下や損壊が多く見られる。また、窓ガラスが割れている家屋も多い。応急処置として、ブルーシートで破損部分を覆ってあるが、雨風が激しくなれば、雨漏りの心配があるだろう。
 空気中には、原発事故前よりも多くの放射性物質が浮遊しているため、雨でそれらが地表に落ちてくるだろう。そんな中では、私も、雨降りの日の外出は躊躇する。原発の状況のさらなる悪化が報道されれば、住民の不安は急激に高まるかもしれない。
 テレビでは、福島県の各地で観測された放射線量は気にするレベルでないとしきりに報道している。いわき市の放射線量は、私のいる郡山市の値よりも一ケタ低い。それにも関らず、いわき市に入りたがらない人々は、原発の爆発を恐れているのではないだろうか。不安は現状ではなく、この先、近い将来、どうなるかだ。原発内の核燃料が再臨界にたっし、爆発的な現象が起こるリスクがないのかどうか。また爆発を避けるため、今後、高濃度の放射性物質の放出があるのかどうか。その点が知りたいところだ。

2011年03月20日(日)
歩道に散らばるガラス破片も依然放置
 郡山駅前にある商業ビルの大型ショウウィンドウのガラスが割れ,歩道に散らばっている.幅4メートルほどの大きく厚いガラスが割れたので広範囲に大量のガラス片が散乱している.応急処置としてテープで立ち入り禁止範囲を定めてあるが,この状態は地震発生後,9日経過しても変わらない.駅前には,震災の前から入居のない商業ビルが多数ある.そのような建物では,積極的に安全確保や修復に取り組む当事者がその場にいないため,しばらくは放置され続けるのかもしれない.
 郡山駅の構内では,修繕工事に取り組む作業員が見られる.しかし,破損がみられるほとんどの建物は,地震後も放置されたまま.外装の損壊は軽微でも,室内設備の損壊が激しいという声を聞く.生活を立て直すには,室内の設備の修理が必要だ.しかし,住宅メーカーとの連絡がつかず,依然として修理に向けたスケジュールは示されない.

車の通行量は多め
 午前9時過ぎにうねめ通り方面に買い物に出かける.移動は,子供用のシートの付いたママチャリ.うねめ通りを少し走ると,営業中のシミズストア(咲田店)を発見.開店直後の時点では,野菜,肉,魚も多くならんでいる.牛乳,卵,レトルトカレーなどを買う.9時30分ごろ,レジの列は20人程度だったが,時間がたつにつれ次第に伸びる.
 郡山市では,食品の流通が回復している印象を受ける.昼には,近所のコンビニ(セブンイレブン)でマーボ豆腐丼を買って食べる.コンビニではおにぎりなども並んでいる.
 ガソリンスタンドには,依然長蛇の列.まだ,この列には並ぶ気になれない.さくら通り,うねめ通り,内環状の車の通行量は徐々に増えている印象.日曜日だからなのか,ガソリンの供給量が回復したからなのかはわからない.
 簡易的に放射線の測定を行いたいと思い方法を調べる.ラジオがあれば放射線の反応がノイズとして評価可能なことがわかり,午後には駅前のヨドバシカメラにラジオを買いに行く予定.大学の研究室にある装置につなげれば,パソコンで数値化も可能かもしれない.
2011年03月19日(土)
郡山駅前には大きな荷物を持ちバスへ乗り込む人々
 開いている店を確認するためさくら通りとはやま通りを自転車でまわる.さくら通りでは「やなまな家」と「牛門」といった焼き肉店が営業を再開している.避難生活の後では,焼き肉は贅沢すぎると感じる.さくら通り沿いの美容院では,避難している人々に対し無料のシャンプーのサービスをする店が複数ある.はやま通りでは「たけや」がおにぎりなどを販売.
 駅前に行くと,4,5台の観光バスが見える.バスのロータリーへ行くと,那須塩原駅行きの臨時バスが出ている.バスの台数の割には乗客は少なく感じた.バスの案内をしているスタッフに尋ねると空きがあれば予約なしでものれるとのことだが.基本は予約制.会津若松行きのバスなども出ている.次第に県外行きのバスの運行が復活し,臨時便も増えている.現状では,バスを使って福島県からの脱出を目指す人は溢れるほどではない.
避難中の魚たち
 福島県外へ避難した家族から金魚などの魚をあずかっている.魚たちには我が家が避難所.魚たちも,まだまだ元気.


学生の安否確認終え,無事を確認

 日本大学工学部で私が担任を務めるクラスの学生のうち,被災地に住む学生と家族の安否確認を終える.被災地に家族が住む学生は約50人.3月14日から学生の実家へ安否確認の電話を開始.ネットーワーク機器の故障のため電話がつながらない場合もあり心配.
 学生の携帯へ電話するなどして,連絡をとる.今まで,連絡がつかなかった学生へも電話が通じ,該当するすべての学生の安否確認完了.学生自身は全員無事でも,家族については訃報がゼロではない.今は励ましの言葉をかけることしかできない.

2011年03月18日(金)
3世帯の母子を那須塩原駅まで送る
 先の見えない不安な状況が続く.状況のさらなる悪化が懸念されるため,妻と子供たちを福島から避難させることを決意.不安要因は原発の問題だけではない.燃料不足,電力不足,医療の不安,損壊住宅の放置,人影の少なくなくなる街,長引く避難生活.
 朝4時,軽自動車2台に3家族(子供は計6人)が分乗し,郡山を出発.気温−4℃.郡山市内では,新聞配達のバイク以外にはほとんど車はない.しかし,ガソリンスタンドには,すでに数百台の車列.
 郡山−那須塩原間の国道4号線は,前後に数台の車が見える程度.通行止めはないが,道路に凹凸や修理跡が多数.道路には,車から落下したと思われる雪の塊があるも,積雪なし.栃木県に入ってからは道路の目立つ損傷はなし.渋滞なく那須塩原駅に到着.時刻は午前5時45分.始発の新幹線(6時13分発)に間に合う.みどりの窓口には10人程度の列.自由席でも十分に座れる.ホームで家族を見送る.
 その後,郡山へ向け車を走らせる.6時20分すぎ,那須塩原駅前で信号待ちをしていると,信号の明かりが消える.4号線の交差点には,警察官の姿.コンビニの明かりも消え,客が店外に出ている.これが関東地方の計画停電か.福島に入ると,信号は作動中.4号線沿いの住宅に瓦の落下や住宅の損壊が見られる.須賀川市に倒壊している工場あり.復路も渋滞なく郡山へ到着.交通量は少なくはない.
 避難所へ戻ると,妻から無事に到着したとの連絡.私,一人になったので,自宅マンションに戻ることにする.避難所の荷物を片付け,現在は,自宅.

写真:須賀川市国道4号線 午前4時過ぎ


写真:那須塩原駅チケット売り場 午前6時ごろ

2011年03月17日(木)
お別れの前日,みんなでカップラーメン
 
明日,同室の子供たちを母親とともに福島県外へ避難させる予定.避難所では定期的な食事の配給があるが,パンや冷めたおにぎりが中心.古いおにぎりから食べていくのでお米が乾燥して固くなったおにぎりを食べることが多い.
 別れの前の夜,蓄えてあったカップラーメンをみんなで食べる.避難生活では暖かい食べものはごちそう.はじめは初対面であった子供たちも,今ではすっかり仲良しに.郡山での再会を約束.

写真:お別れの前日の記念撮影

子どもたちの不安は消えず
 震度3程度の余震の発生間隔が数時間程度になったので,自宅マンションに帰っているいると,妻から電話.娘が心配して泣いているとのこと.すぐに,避難所へ戻り,娘を安心させる.
ザ・モール郡山は閉店中,さくら通りは閑散
 ザ・モール郡山は閉店状態.駐車場には何重ものバリケードがあり,車の進入を防ぐ構造がみられる.車で突入する犯罪の防止のためか.さくら通りは,車,人ともほとんど見かけない.


写真:午後2時過ぎのさくら通り 正面は郡山駅方面

コンビニに入荷もみられる
 郡山市の小学校に避難して6日目.昨夜から灯油不足のため,夜10時以降は暖房停止.ダウンジャケットを着て寝るが,寒くて目が覚める.子どもたちは熟睡できているもよう.
 近所のコンビニは11時30分に開店.コンビニでは,わずかながら,カップめん,水,お弁当などが陳列しはじめる.

ヘリコプターが頻繁に上空を通過
 避難所の窓がときどきガタガタと音をたて振動する.これは余震ではなく,上空のヘリコプターのおこす風の影響.

2011年03月16日(水)
あっという間に避難生活5日目
 これまで,私のいる避難所では,断水のため水の不自由があった.しかし,本日通水.私たちのいる4年1組教室では,私を含めて子連れの家族が3世帯が生活.お互いに助け合いながら,がんばっている.
 今日も家族を福島から脱出させるべきか悩む.原発からの放射線,燃料不足,食料不足.日々状況が悪化している.脱出するために那須塩原駅まで3世帯の母子を運ぶとするとガソリンがギリギリ.いったんは決意したが,道路の混雑状況が不明なため,夜になり断念.私自身は多少被ばくしても,地域や大学の手助けをするつもりだったが,さすがに,子どもたちについては,被ばく量が気になる.
 市職員から避難所での節電指示.本日はくもりのため,暗い部屋で子供たちが過ごす.被災した子供たちにまで我慢を強いる必要があるのか疑問.我々よりもご苦労されている被災者がいることは承知している.元気な大人が我慢するのは当然だが,恐怖に怯える子どもたちへの配慮は必要ではないか.

2011年03月15日(火)
新学期開始日の延期
 大学で今後の日程が決定.当初予定よりも,2週間日程を遅らせるとのこと.自分の研究室の片づけに手をつけたが,原発の状況が気になり,1時間程度の作業後帰宅.
 福島から家族を避難させるか大いに悩む.ガソリンの供給がほとんどなく,食料も不足している.原発の問題がなくとも,生活環境悪化の不安がある.
吉野家で牛丼販売
 午後に大学からの帰り,金山橋近くの吉野家で牛丼が販売されていた.通行する車に旗を振って知らせる従業員.福島からの脱出を目指す人も少なくないが,地域の人々のために営業を再開する店もみれらる.

写真:一生懸命旗をふる吉野家の店員

2011年03年14日(月)
お店に長蛇の列
 近所のツルハドラッグが開いていた.陳列棚からの落下が多数あるなかの開店.レジへは200人ほどの長蛇の列.1時間くらいならんだ.割り込んだり,略奪をする人はなし.最初はクレジットカードが使用可能とのことだったが,レジで電話回線の不通となり,現金での支払いとなる.
換気の指示なくなる
 避難先の小学校では1日目,2日目と午前中に室内の掃除をみんなでした.その際,校内放送で窓を開け換気をしましょうと指示があったが,今日は窓を開けるように指示はない.放射性物質を気にして対応が変わったのか.

2011年03月13日(日)
デパ地下は健在
 さくら通りを散歩.多くの建物に被害.しかし,倒壊はなし.駅前の,うすい百貨店へ行くと,買い物袋をもった人々を発見.私もうすいへ買い物へ行く.ほとんどのお店が閉店状態,もしくは品薄状態の中,そこは充実の品ぞろえ.焼き立てパンや,お惣菜も売られていた.ただし,カップめんはなし.避難している家族と同室のみんなのために唐揚げをかって帰る.
 避難所,支給される食パンが中心だが,うす皮まんじゅうなども支給される.

2011年03月12日(土)
原発事故
 自宅に帰り,室内を見る.地震対応の玄関ドア枠にも歪みがあった.自宅内は,本棚が一つ倒れ,台所の食器棚が大きくずれているものの,想像よりも,倒れたものは少なかった.むしろ、壁の被害が大きい。自宅のインターネット環境は使用可能.Yahooニュースで,スポーツ選手からの応援メッセージを見る.海外で活躍するサッカー選手のメッセージに涙.
 建物外部の損傷はそれほど大きくない場合でも,屋内は悲惨な状況である場合が多い.郡山でも10階建以上の高層マンションが多数あるが,上層階では,備え付けのキッチンがずれるなど,激しい室内破損があったと聞く.
 大学へ行き,私の研究室がある建物へ行くと,「安全確認が終わるまで入館禁止」の張り紙.特に手伝えることがないとのこと.しかたなく,交通手段がないため大学へ泊った学生を見舞って帰る.
 夕方,部屋の片づけをしているときに,原発のニュースを知る.電話で避難所の家族に外出しないように電話.何度電話しても,繋がらないので,岡山の実家に電話し,そこから伝言を頼む.大した放射線量ではないらしいので,避難所へ退避.
 ある程度自宅は片付いたので,自宅での生活は可能.しかし,娘は地震の恐怖から,自宅に帰ることは不可能な状態.その夜は,私だけ自宅で寝る.余震は,初日よりも減ったが,依然頻繁に発生.余震のたびに,マンションがきしむ音が発生.それでも,初日よりはぐっすりと眠れた.
 避難所では,水が出ないので,プールの水をトイレで使用.パンと水が定期的に配給された.
 自宅から避難所におもちゃを持ち込み,子どもたちを遊ばせる.地震に対する恐怖心から自宅に帰りたがらない子供が多数.いかに恐怖心を取り除くかが問題.

ガス漏れを通報
 朝方,自宅マンション角のT字路で,ガス臭に気づく.自宅ではガスが使用可能な状態であるが,もしかすると、近所でガス漏れが発生しているのではないかと思い,避難所から警察への連絡をお願いする.近隣地域を封鎖し,ガス会社が点検.地下ガス管からのガス漏れが発見される.その日の午後には修理が完了したもよう.地震の被害は目に見えないところにもある。
WiMaxが使用可能に
 昨日は使用不可能だった,WiMaxが使用可能になる.電話がつながらないことが多いので,Skypeからの電話を試す.Skypeでは,比較的容易に固定電話,携帯電話に通いじる.ちなみに私のスカイプ名は"lets611".

2011年03月11日(金)
巨大地震,避難生活のはじまり
 私(清野)が大学の研究室で電話応対中に地震が発生.大したことはないだろうと,電話で実況中継していたが,本棚が倒れはじめたので,あわてて電話を切り,机の下にかくれる.次々と本棚が倒れ,壁に打ち付けてある棚も大きくずれた.目の前がぐるぐるとまわるゆれ.私の知っている地震は,数十秒程度続いて,ゆれがおさまるもの.今回は,ゆれがおさまることなく,威力を増していき,このままでは建物も倒壊するのではないかと覚悟した.ゆれが一段落し,倒れた本棚の隙間を抜けて部屋をでた.建物にも多数のひび割れがみられ,コンクリート片の落下も見られた.4階では水道管が破損したようで,水が天井から漏れている.建物はキュッキュッという音を出し揺れ続けているようだ何度か重要な荷物を運ぶために研究室に戻ったが,比較的大きなゆれの余震のたびに緊張がはしる.
 ひとまず,大学の本館へ学生,教職員が集合.学内にいる学生の安否を確認する.財布には千円札が一枚しかないので,本館にあるキャッシュディスペンサーでお金をおろす.
 人づての情報では安積永盛駅に通じる橋が渡れない状態とのこと.また,電車が止まっているので,大学に宿泊する学生もいる.大学前のコンビニは営業を継続しており,研究室の学生にパン,カップラーメン,水を買い与える.
 携帯電話は通じないが,公衆電話は通じる場合あり.自宅に電話するも,誰も出ず.妻の携帯電話へ電話するも,全く通じず.私の岡山の実家へ電話すると母が出る.家族は小学校へ避難中とのこと.
 午後6時すぎに虎丸町の自宅マンションへ帰宅.虎丸町周辺は停電で真っ暗な状態.自宅の床には,落下したものやガラスの破片が散らばっている.そんな中,懐中電灯と電池を探し家を出る.息子が通う近所の小学校へ行くと避難中の家族に会うことができた. 自宅にも,ヒビや破損がみられ,余震がつづくのて,家族とともに小学校での避難生活を開始.
 初日はほとんど寝ることができなかった.余震とはこんなに頻繁に起きるものなのかと思った.とにかくゆれっぱなしというのが初日の印象.ゆれは,横に揺れたり,突き上げるような初期微動があったりとさまざま.

   
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