東北大震災 郡山市民の視点 本文へジャンプ
被災生活の状況[報告者:キヨノ ken_chaos@yahoo.co.jp]
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(9月から2月までは日記を書いていません)

2012年03月13日(火)
自宅が売れない
 我が家は4月から大阪へ引っ越すので,自宅を売りに出している.同時に,賃貸の募集もかけている.仲介業者へ依頼して,もう2か月が経つ.毎週,報告書を郵便で送ってくれるが,問い合わせは1件のみ.物件を見たいという連絡は0件だ.
 学校の近くにあり,大きなショッピングモールが近くにある良い立地だと思うが,こんな状況では買い手がつかないかもしれない.金持ち父さんなら,自宅は負債と言うだろうが,とんだ負債を抱え込んでしまった.
 しかし,地震から1年が経ち,一年前の映像を目にすると,こんなことで嘆いている自分が恥ずかしくなる.幸い仕事はあるのだから,なんとか残りの住宅ローンを払っていきたい.

2012年03月11日(日)
東電賠償金請求書を送付
 少し前に,東京電力の賠償金の請求書用紙が我が家に届いた.1日でも避難すれば,自主避難の条件を満たし,子供であれば一人当たり60万円が支払われる.我が家の子供たちは,震災後の3月18日から20日間ほど県外へ避難していた.避難を証明するために,JRの支払い明細書やETCの利用証明を集めていたが,結局,世帯で1枚のみ証明書を添付すればよいということで,避難期間の病院の領収書を1枚添付した.
 請求書は特定記録郵便で送付する必要があるので,日曜の午前中に郡山郵便局へ.日曜にもかかわらず窓口は営業していた.しかも,賠償請求書専用の受付場所があった.郡山市の全世帯が東電に請求書を送るのだから,郵便局がにぎわうのも当然.
 今回の賠償額では納得できないという声も聞くが,私は,そもそも賠償を期待していなかったので,やや気持ちのゆとりができた.なぜなら,自宅の修理費用を今回の賠償金で支払えるからだ.とはいえ,放射能汚染は,自宅の価値を大幅に下げたし,お金では埋め合わせることができないことも多い.結局,損をするのは原発事故にあった地域の人々だ.

2012年03月04日(日)
世界のおわりのうた
 地震と原発事故の後,私には頭の中で繰り返し流れる一つの歌がある.私は,学生のころ,アーティストを目指していた.もう,20年くらい前になるが,そのころ私が作った歌に「世界の終りのうた」というのがある.音源が見つからなかったので,曲は紹介できないが,歌詞の一部はこんな感じ.

今は 空は灰色で
鳥たちが姿を 消してしばらくなるけど
あのころは 青い空の下
僕たちもっと うまく笑えてたはずさ

今は 海は真っ黒で
ヘドロの香りが 街まで押しよせるけど
あのころは 青い海を見て
遠い未来を 夢見てたはずさ

 世界が終わりを告げたぜ
 相変わらず この街は騒がしいけど

 世界が終わりを告げたぜ
 ありふれた日々のため息の間に

震災から1年がたとうとしている.子供たちが姿を消した公園を目にするたびに,この歌が思い出される.先月,水族館アクアマリンふくしまへ行き,震災後の海を眺めた.海は青く,空も青いままだ.まだ,世界は終わっていないのだろう.

2012年03月01日(木)
(震災後の1年を振り返って)
かっこだけの除染作業
 昨年の11月には,息子の通っている小学校で,親たちが通学路の除染をやるというので私も参加した.作業に参加すると,学校の先生からデッキブラシで道をこすれと言われた.しかも,どこに汚染があるのかという判断をせず,とにかく適当にこすれという段取りだった.県の助成金をあてに購入した高圧洗浄機も使っていたが,水を透過するアスファルトの場合は,水の吸引を同時にしないと,落とした放射性物質がアスファルトに染み込んでしまう.実際の作業では,そんなことはお構いなしで,水をひたすらかけていた.この除染作業は,虚しい作業だった.なぜなら,デッキブラシでこすっても,除染の効果は薄く,高圧洗浄機を併用した場合は,デッキブラシの効果はほとんどないからだ.
 私は原発事故以来,除染の実験を繰り返し,その効果を検証してきた.放射線の測定器だけでなく,除染の役にたつ道具を自分でそろえ,10か所の児童施設で実際に除染を支援した.そんな中,昨年の5月に小学校の除染したいと学校に申し入れたが,学校と教育委員会に断られた.
 それでいて,11月になったら,県の予算に市民が踊らされ,小学校で指示されるままにデッキブラシで道路をこすることになった.もちろん,除染作業をすることは悪いことではないので,した方が良いと思う.しかし,効果がほとんどない作業が多いのが実情だった.

2012年02月29日(水)
約半年ぶりに被災日記を書く
 もう少しすれば,3月11日の地震から1年がたつ.そして,私はこの春から大阪の大学へ移るので,我が家の福島県での生活は,この3月までで終わる.言い訳のように響くと思うが,私が大阪へ行くのは,放射能汚染から逃れることが目的ではない.
 福島県は震災と原発事故からの復興を目指しているが,私個人も今回の試練を乗り越え,自分の人生をできる限り自分の力で切り開かなくてはいけないと思う.震災後,私は少しでも福島の復興の手助けをしたいと考えていたが,私の力は微々たるもので,実質的な働きは,何もできなかった.自分の無力さを思い知らされた.失望した.しかし,このように状況にいじけて,うずくまっているわけにはいかない.私はアーティストにはなれなかったが,科学者にはなれたと,子供たちに胸を張って言えるよう,研究の道を進み,真理を追及していきたいと,今は考えている.とはいえ,私がこの先いくら努力しても大したことはできないかもしれない.でも,今,私が大切にしたいことは,結果として何ができたかではなく,挫折や困難にぶつかっても,前向きな気持ちを失わない姿を子供たちに見せることだ.
 大阪へ行けば,研究面では今より恵まれた環境になる.私は1月で40歳になった.それほど若くもないが,まだ, 20年か30年くらいは,研究のための時間が残されている.震災が与えてくれた経験を噛みしめながら,私の人生の後半戦を楽しみたいと思う.
 私が郡山市民であるのは残り1か月のみだ.残りの1か月をかけて,これまでの一年を振り返って印象に残ったできごとを少しずつ書き残してきたい.


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